Saturday, November 10, 2018

Earth Atomic Bomb (EAB) 地球原爆の会, 201705_01




The Atomic Cafe
アメリカ人の映画監督ケヴィン・ラファティ、ジェーン・ローダー、ピアース・ラファティが1982年に公開した核兵器に関するドキュメンタリー映画である。ニュース映画や政府所有のフィルム、ラジオ音声などにより構成され、一切のナレーションは排されている。 素材は、人類史上最初の核実験、広島・長崎への原爆投下、ビキニ核実験などの実際の映像のほか、アメリカ政府制作の反共プロパガンダ映画、ニュース映画、大統領の演説音声、ラジオ放送、民間防衛のための広報フィルムなど多岐にわたる。全て実際に撮影・製作・放送されたものである。監督のケヴィン・ラファティらは、映像を入手するためにワシントンD.C.のアメリカ議会図書館、空軍基地などを訪ね歩いていた。やがて彼らは原爆関連のプロパガンダを主題とすることに決め、さらに5年の歳月をかけて映画を完成させた。1982年にアメリカで、1983年に日本で公開された。

Friday, November 9, 2018

海上挺進隊顕彰之記 (JAB) Japan Atomic Bomb 日本原爆の会



江田島の幸ノ浦海岸に建てられた海上挺進隊戦没者慰霊碑。1945年8月15日に幸ノ浦にいた海上挺身隊の特攻たちは、水上特攻の訓練を受けた。彼らは1945年8月6日に広島原子爆弾の投下と炸裂による未曾有の惨劇に至近距離で遭遇した。江田島の第十教育隊は上陸用船艇で広島宇品に向けて午前11時頃に出港した。当日の直後から被爆者の救援に獅子奮迅の救護した。第十教育隊の救護地域は、現在の原爆ドームがあった産業奨励館であった。8月6日深夜に爆心地から宇品港までの道路が貫通して、中継地の救護所まで当日だけで生存者の約8,000人をトラックで運搬した。爆心地周辺で救護と復興活動をした海上挺身隊は広島原子爆弾から重篤な原爆症に罹患した。



旧帝国陸軍 陸軍輸送部 船舶司令部 (JAB) 日本原爆の会





広島宇品港には陸軍の船舶および鉄道輸送を統括する陸軍運輸部が置かれ。広島県県令(県知事)千田貞暁が広島県を一大軍事基地した。宇品港を1889(明治22)年に完成させた。船舶司令部は極秘任務のために暁部隊と呼称された。海上特攻の陸軍海上挺身隊は広島原子爆弾の救護に任務した。宇品港は、1945年8月16日午前8時15分に投下された広島原子爆弾が炸裂した爆心地から約4km離れて大被災から免れた。直ちに、多数の被爆者が船舶司令部に殺到した。午前8時50分に被爆者の救護は似島の第二検疫所に護送を指令した。甚大な被災を受けた広島市内に、暁部隊を派遣した。


似島第二検疫所 Japan Atomic Bomb (JAB) 日本原爆の会




広島原子爆弾が、アメリカ軍の爆撃機から1945年8月6日15分に投下されて、広島市内で炸裂した。広島市内は壊滅したために、宇品の陸軍船舶司令部が、青年兵士で構成された江田島の暁部隊に緊急救護を要請した。暁部隊は、特殊潜航艇で至急に広島宇品港に到着するや、広島市内の爆心地や太田川水系の上流に向けて消火や救助をした。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。身元不明の犠牲者の冥福を祈って「千人塚」に埋葬した。広島市内で被爆者の救護に任務した暁部隊の多く青年兵士も原爆症で死亡した。検疫所跡は保存されずに、跡碑が自然の家の一角に残存した。似島陸軍検疫所跡の碑は、臨海少年自然の家建設にあたり、第二検疫所の施設内の遺構はすべて取り壊された代わりとして建立された。




広島城に日清戦争の大本営が設置されてから、広島県内には多くの軍事施設が整備された。1984(明治27)年9月15日から1985(明治28)年4月27日まで、日清戦争の大本営が設置され、臨時首都となった。広島宇品港から南3km南の似島には、戦地から帰還兵士や馬の感染症と消毒のために隔離監査施設である検疫所が設置された。日清戦争では1984年に第一検疫所(現在の似島学園)、日露戦争では第二検疫所(現在の自然家)が1905年に設置された。第一次世界大戦では、第二検疫所にドイツ人やロシア人の俘虜収容所、第二次世界大戦では、第二次検疫所に馬匹検疫所が整備された。戦局の悪化して、戦場からの帰還兵は減少していた。戦後に1946年厚生省に移管され、1958年に閉鎖された。



似島陸軍検疫所跡
 この地には、明治37年(1904)似島陸軍検疫所が設けられ日露戦争より第二次世界大戦にいたる長期にわたって、帰還した兵や武器などの検疫、消毒が行われた。昭和20年(1945)原子爆弾による負傷者の臨時救護所となり、約10,000人が収容された。その後、明日を担う子供たちを育む場として、昭和57(1982)より整備を行った。


昭和61年(1986)3月 広島市